そば茶屋てんえい

そば茶屋てんえいは、そば好きが集まって営業している蕎麦屋です。土日のみの営業です。

まずはコスモスが迎えてくれます
なかなか良い雰囲気です

そば茶屋 てんえい (福島県岩瀬郡天栄村牧之内女神75) 
                  tel 0248-82-3888 天栄村そば愛好会
                  土曜・日曜・祭日営業
                  営業時間 10:00~15:00

高知駅前(高知県)

高知市(こうちし)は、四国の中南部に位置する都市で、高知県の県庁所在地である。国から中核市に指定されている。旧土佐郡・長岡郡・吾川郡。

山内一豊の入府以来、土佐藩の城下町から発展した都市である。

高知県中部の中心都市であると同時に、四国太平洋側の中心都市ともなっている。県内最大の商業地を持つと同時に、県内の人口の40%を占めるプライメイトシティ(一極集中型都市)でもある。

国内では、酒類の消費量が多い都市の一つ。名物にはカツオのたたきとよさこい鳴子踊り。高知市民の気風とされている要素は、女性はハチキン(八金:「『男4人分』より強い。」とも言われる、勝気な女衆。)、男性はイゴッソウ(偉骨相:頑固者。ただし敬意の念も含まれる。)等である。

日曜市を初めとする定期市(いわゆる「曜市」。開催場所、形態や運営方法は異なるものの、月曜日を除く毎日、市内で開かれている。)が有名であり、「スローライフ」志向が強いとする見方もある。1998年に市の中心部に開設された「ひろめ市場」は、地元資本が運営しており、コンパクトな造りに比して多様な店舗(飲食店、食料品店が多い。)の利用を楽しむことができるため、休日を中心に市内外からの来店者で賑わっている。

岩崎弥太郎生家(高知県)

弥太郎の育った家は安芸駅から自転車で20分程度、辺り一面畑が広がるのどかな所にひっそりと建っています。土用竹の垣根に囲まれた、温かい雰囲気の家です。周囲の道が整備されておらず、車1台がやっと通れる位ですが、これが却って、当時の雰囲気を今に伝えている様な気がします。茅葺の屋根がその温かさをよりいっそう引き出しているのでしょうか。田舎のおばあちゃんの家、といった感じです。岩崎弥太郎は、この家で勉学に励み、大志を大きく膨らませていったのでしょう。

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、1835年1月9日(天保5年12月11日) – 1885年2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。

土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斉の塾に入塾する。1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放される。その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期後藤象二郎らの知遇を得る。

東洋が参政となると、これに仕え土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事する。吉田東洋暗殺の犯人を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し無断帰国、長崎での藩費浪費の責任も問われ、職を辞した。慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当した。

明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、大坂の土佐商会に移る。翌年10月、土佐商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作ったということはつとに有名である。

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。今でいうインサイダー取引である。

弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。三菱商船学校(のちに官立の東京商船学校を経て現国立東京海洋大学海洋工学部)創設者である。

大鳴門橋(徳島県)

大鳴門橋(おおなるときょう)は、兵庫県南あわじ市福良丙 (淡路島門崎)と徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦(大毛島孫崎)間の鳴門海峡両端を結ぶ吊り橋である。1985年6月8日に開通。本州四国連絡高速道路が管理しており、本州と四国を結ぶ三つの本四架橋ルートの一つである神戸淡路鳴門自動車道として供用され、四国地方と近畿地方の交通の要になっている。

橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3m。橋は上下2層式となっており、上部は片側3車線の道路(現在は計6車線の内、中央4車線を使用)、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっている。ただし、明石海峡大橋が道路単独橋で建設されたので、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性は消滅している。

大塚国際美術館(徳島県)

大塚国際美術館 (おおつかこくさいびじゅつかん, The Otsuka Museum of Art) は、徳島県鳴門市の鳴門公園内にある、陶板複製画を中心とした日本最大の私立美術館である。大塚製薬グループの創業75周年事業として1998年に開設された。とくしま88景に選定。日本最大の美術館(延床面積29,412m2)として1998年に開館した。後発の国立新美術館(2007年開館、47,960m2)に次ぐことになったが、兵庫県立美術館(27,461m2)などを上回る日本第2位、私立では最大の美術館建築である。

展示されている作品の多くは、大塚グループの大塚オーミ陶業株式会社が開発した特殊技術によって、世界中の名画を陶器の板に原寸で焼き付けたものである。オリジナルの収集に拘るのではなく自社技術を用いてふんだんに作品を複製、展示するという構想は、企業の文化事業としての私立美術館の中でも非常に特異な試みといえる。美術教育に資するべく、作品は古代から現代に至るまで極めて著名、重要なものばかりを展示しており、これらを原寸で鑑賞することでその良さを理解し、将来実物を現地で鑑賞して欲しい、との願いが込められている。
陶板複製画は風水害や火災などの災害や光による色彩の退行に非常に強く、屋外でのサインボードや壁画に用いることのできる技術として開発された。そのため大塚国際美術館でも、展示室の中には写真撮影を禁じていない所や、屋外に作品が展示されている場所もある。屋外の庭園に展示されたモネの『睡蓮』などはその性質を生かした好例である。板を組み合わせることで大型化にも対応でき、ミケランジェロの『最後の審判』もオリジナルの展示環境全体を再現したシスティーナ・ホールに展示されている。このホールは2004年5月9日、衆議院議員の後藤田正純と水野真紀の結婚披露宴が行われたことでも有名となった。

一畑電車(鳥取県)

一畑電車株式会社(いちばたでんしゃ)は、島根県東部で鉄道事業を運営する会社。一畑電気鉄道(持株会社)の傘下にある。本社は島根県出雲市平田町2226番地(雲州平田駅構内)。

社名は、出雲市にある一畑寺(一畑薬師)への参詣を目的として建設されたことに由来している。

最近では、乗客数も減少の一途をたどり、年間140万人程度である。

北松江線

電鉄出雲市 – 松江しんじ湖温泉

一畑電気鉄道2100系電車
一畑電気鉄道2100系電車

大社線

川跡 – 出雲大社前

一畑電気鉄道2100系電車
デハニ50形(幼稚園内)
一畑電気鉄道2100系電車

松江城(島根県)

松江城(まつえじょう)は島根県松江市殿町にある城。別名・千鳥城。国の史跡に指定されている。指定管理者制度に則り、NPO法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。

日本に12箇所しか現存しない、江戸時代以前建造の天守を有する城郭の一つである(現存天守)。また中国地方の県庁所在地に所在する唯一の現存天守でもある。

松江市街の北部に位置し、南に流れる大橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲んでいる。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。

高さ30m、5層6階の天守は桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されている。

江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となった。現在は松江城山公園として観光名所となっている。

宍道湖の眺望が良く日本三大湖城の一つとなっている。また、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。

一ノ門
松江郷土館

石見銀山(島根県)

石見銀山(いわみぎんざん)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国指定の史跡に登録された。2007年(平成19年)に、ユネスコの世界遺産への登録が決定された。同年、日本の地質百選に選定された。

石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩のお告げにより銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の採掘がなされていたものと考えられているが、今日、石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞(姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている[1]。海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。

町並み

五百羅漢

石窟五百羅漢は、銀山で働いて亡くなった人々や祖先を供養するためにと月海浄印が発願し、25年もの歳月をかけて1766年に完成しました。羅漢寺はこの五百羅漢を護るために建立されました。
 羅漢寺から道をはさんで向かい側、銀山川に架かる石の反り橋を渡ると、岩山に3つの石窟が掘られています。この左右の石窟に、合計501体の羅漢像が安置されています。

山道

銀山までは山道を通って行きます。

cafe 住留

石見銀山で食事をとるならここ。

寿々乃井(すずのい)酒造店

 その昔、会津の殿様が参勤交代で通ったという由緒正しき道に蔵が建ち、脇には赤松、黒松の大木が構える。夏には水芭蕉が咲き誇り、大木にはムササビが住んでいるという、恵まれた自然環境の中、代々伝わる酒道具を使用し、丹念に心を込めて、手作りで酒が作られています。

 創業は文化年間。酒は端麗なやや甘口タイプが主流、素直できれいな酒質なので飲み飽きしません。杜氏の藤原氏は、在蔵役30年のベテラン。各種鑑評会でも毎年、優秀な成績をおさめています。

福島県岩瀬郡天栄村大字牧之内字谷中1
TEL:0248-82-2021
TEL:0120-82-2071

大井川鐵道 井川線(静岡県)

井川線(いかわせん)は、静岡県榛原郡川根本町の千頭駅と静岡県静岡市葵区の井川駅とを結ぶ大井川鐵道の鉄道路線である。南アルプスあぷとラインの愛称がつけられている。
大井川の流れに沿って山間を縫うようにゆっくりと走る。全線の1/3がトンネルと橋梁で占められており、また非常にカーブが多く走行中は車輪が軋む音が絶えない。そのため井川線の機関車および制御客車は水撒き装置を備えている。
鉄道資産は中部電力が保有している。ただし第三種事業者ではない。同線の赤字額は中部電力が負担している。

大井川鐵道井川線沿線・DD20 5「AKAISHI」 赤石 (2008/05)