ねねの道(京都府)

「ねねの道」は、北へ一直線の平坦な石畳の道。正しくは高台寺道といい、ねねの道と呼ぶのは、秀吉の正妻北政所「ねね」ゆかりの寺、高台寺と園徳院があることからこう呼ばれるようになった。

高台院(こうだいいん)

高台院(こうだい いん、天文11年〔1542年)〕?[1] – 寛永元年9月6日〔1624年10月17日〕)は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の妹。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

高台寺(こうだいじ)(京都府)___ホームページ

高台寺(こうだいじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。
霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。

高台寺からスタート

毘沙門堂(びしゃもんどう)

毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。

寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。

建久6年(1195年)の平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(かずらわらしんのう、786 – 853)の創建で、太秦(うずまさ、現京都市右京区)に所在。尊重寺は平親信(945 – 1017)の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、本尊だけが大原(京都市左京区大原)に移されたものという。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。

この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。後西天皇皇子の公弁法親王(1669 – 1716)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。

おまけ

如意ヶ岳(にょいがたけ)(大文字山(だいもんじやま))

一言で言えば「大」の字が付いている標高465mの三角点のある山。東山三十六峰の中心の山と言ってよい。誰でも簡単に見つけられる。 国土地理院の地図には「大文字山」と書かれている。本当の如意ヶ嶽はさらに東へかなり進んだところにある。京都市内からは見えない、標高は472m。山頂からは南方面が開けているだけだが、「大」の字の火床からは京都市街が気持ち良く一望できる。読みは意外と難しく「にょいがたけ」か「にょいがだけ」(濁る)か。「にょいがたけ」(濁らない)の方が多いようではある(雍州府志の現代語訳では濁るルビがふってある)。山頂は「鹿ヶ谷大黒谷町」にある。
三等三角点(鹿ヶ谷)のある地点が山頂。この地点は「大文字山」と呼ばれる。この山頂にはかつて「如意岳(嶽)城」があった。京都市遺跡地図台帳には「応仁文明の乱頃(1467-1487)すでに陣塞化。細川高国・足利義輝なども城塞を利用。標高466mの山頂を本丸とする。東西尾根約1kmに空堀・土塁・腰郭が良好に残る」と記載されている。築城は、文明年間(1469-1487)多賀忠高によるという説が有力。 三等三角点は、N35度00分59秒146・E135度48分52秒357、標高465.44m。三角点の他に、建設省国土地理院の「菱形基線測点」(八角形の大きな石柱)も置いてある。 

哲学の道(てつがくのみち)

哲学の道(てつがくのみち)は京都市左京区の道路である。南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疎水の両岸に植えられた桜はみごとで、春や紅葉の秋は多くの観光客でにぎわう。哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされ、1972年に正式に銘々。「日本の道100選」にも選ばれている散歩道である。

道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。

哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪の夫人が大正年間、京都市に苗木を寄贈したのに始まる。当初の木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、植え替えられ、手入れされ現在に至っている。今でも「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれている。

永観堂/聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺(京都府)

禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。

空海(弘法大師)の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿3年(853年)、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観5年(863年)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。

当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観(ようかん、1033年 – 1111年)の頃から浄土教色を強めていく。永観は文章博士(もんじょうはかせ)源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三論宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは延久4 年(1072年)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は普通「えいかんどう」と読むが、「永観」という僧の名は「ようかん」と読むのが正しいとされている。

禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保2 年(1082年)、当時50歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。

禅林寺12世の僧都・静遍(じょうへん、1166年 – 1224年)は、当初真言宗の僧であったが、後に法然に帰依し、念仏門に入った。法然の高弟の証空(西山)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したと伝えられている。證空の門弟の浄音の時代に、禅林寺は真言宗から浄土宗西山派(小坂流)の寺院となり、揺るぎのない念仏道場とされた。

慈照寺(じしょうじ)(銀閣寺)

慈照寺(じしょうじ)は、京都府京都市左京区にある、東山文化を代表する臨済宗相国寺派の寺院(相国寺の境外塔頭)。正式名は東山慈照寺。山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍の足利義政、開山は夢窓疎石とされている(夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という。)。足利義政が造営した楼閣建築である観音殿を「銀閣」と通称し、観音殿を含めた寺院全体を「銀閣寺」と通称している。この通称名は近世の名所案内記などですでに使用されている。なお、金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていないが、全体に黒漆が塗られていたと考えられている。なお修復に際し、黒漆を再現するべきか、現在の木目をそのまま生かすか議論が分かれている。平成20年2月から2年間の予定で修理中であり、銀閣そのものは見られない(平成20年7月現在、骨組みと、屋根の見本は見られる)。

室町幕府8代将軍足利義政(1436 – 1490)は、1473年(文明5年)、嗣子足利義尚に将軍職を譲り、 1482年(文明14年)から、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。当時は応仁の乱が終わった直後で、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(ぶやく、労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である1483年(文明15年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち、足利義満の北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能ももっていた。ただし、現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。1490年(延徳2年)2月、同年に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによる。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。

1952年3月29日には庭園が 特別史跡及び特別名勝に指定された。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として 世界遺産に登録されている。

現在銀閣は工事中
銀閣寺を一望

鹿苑寺/金閣寺(京都府)

鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名にちなむ。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。

金閣舎利殿
鏡湖池
龍門の滝

緑寿庵 清水(京都府)

金平糖は、着色した砂糖を固めるだけの物がほとんどなのですが、緑寿庵清水では、天然の味を付けると、砂糖が固まらないという常識をくつがえし、五十種ほどの豊富な風味の金平糖をお届けできる、日本でただ一軒の金平糖の専門店でございます。
と、ある。

龍安寺(京都府)

龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。山号を大雲山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

方丈庭園(史跡・特別名勝)-いわゆる「龍安寺の石庭」である。幅25メートル、奥行10メートルほどの敷地に白砂を敷き詰め、帚目を付け、15個の石を5か所に点在させただけのシンプルな庭である。近世の地誌類には、室町幕府に仕えた相阿弥の作庭と伝えるが、作者、作庭年代、表現意図ともに諸説あって定かでない。室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものとも伝えられる。

鏡容池
知足の蹲踞(つくばい)
立派な侘助椿
茶室蔵六庵脇
鏡容池