高知駅前(高知県)

高知市(こうちし)は、四国の中南部に位置する都市で、高知県の県庁所在地である。国から中核市に指定されている。旧土佐郡・長岡郡・吾川郡。

山内一豊の入府以来、土佐藩の城下町から発展した都市である。

高知県中部の中心都市であると同時に、四国太平洋側の中心都市ともなっている。県内最大の商業地を持つと同時に、県内の人口の40%を占めるプライメイトシティ(一極集中型都市)でもある。

国内では、酒類の消費量が多い都市の一つ。名物にはカツオのたたきとよさこい鳴子踊り。高知市民の気風とされている要素は、女性はハチキン(八金:「『男4人分』より強い。」とも言われる、勝気な女衆。)、男性はイゴッソウ(偉骨相:頑固者。ただし敬意の念も含まれる。)等である。

日曜市を初めとする定期市(いわゆる「曜市」。開催場所、形態や運営方法は異なるものの、月曜日を除く毎日、市内で開かれている。)が有名であり、「スローライフ」志向が強いとする見方もある。1998年に市の中心部に開設された「ひろめ市場」は、地元資本が運営しており、コンパクトな造りに比して多様な店舗(飲食店、食料品店が多い。)の利用を楽しむことができるため、休日を中心に市内外からの来店者で賑わっている。

岩崎弥太郎生家(高知県)

弥太郎の育った家は安芸駅から自転車で20分程度、辺り一面畑が広がるのどかな所にひっそりと建っています。土用竹の垣根に囲まれた、温かい雰囲気の家です。周囲の道が整備されておらず、車1台がやっと通れる位ですが、これが却って、当時の雰囲気を今に伝えている様な気がします。茅葺の屋根がその温かさをよりいっそう引き出しているのでしょうか。田舎のおばあちゃんの家、といった感じです。岩崎弥太郎は、この家で勉学に励み、大志を大きく膨らませていったのでしょう。

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、1835年1月9日(天保5年12月11日) – 1885年2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。

土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められる。21歳の時、江戸へ遊学し安積艮斉の塾に入塾する。1856年父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放される。その後、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、この時期後藤象二郎らの知遇を得る。

東洋が参政となると、これに仕え土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事する。吉田東洋暗殺の犯人を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し無断帰国、長崎での藩費浪費の責任も問われ、職を辞した。慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当した。

明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、大坂の土佐商会に移る。翌年10月、土佐商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作ったということはつとに有名である。

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。今でいうインサイダー取引である。

弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。三菱商船学校(のちに官立の東京商船学校を経て現国立東京海洋大学海洋工学部)創設者である。

大鳴門橋(徳島県)

大鳴門橋(おおなるときょう)は、兵庫県南あわじ市福良丙 (淡路島門崎)と徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦(大毛島孫崎)間の鳴門海峡両端を結ぶ吊り橋である。1985年6月8日に開通。本州四国連絡高速道路が管理しており、本州と四国を結ぶ三つの本四架橋ルートの一つである神戸淡路鳴門自動車道として供用され、四国地方と近畿地方の交通の要になっている。

橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3m。橋は上下2層式となっており、上部は片側3車線の道路(現在は計6車線の内、中央4車線を使用)、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっている。ただし、明石海峡大橋が道路単独橋で建設されたので、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性は消滅している。

大塚国際美術館(徳島県)

大塚国際美術館 (おおつかこくさいびじゅつかん, The Otsuka Museum of Art) は、徳島県鳴門市の鳴門公園内にある、陶板複製画を中心とした日本最大の私立美術館である。大塚製薬グループの創業75周年事業として1998年に開設された。とくしま88景に選定。日本最大の美術館(延床面積29,412m2)として1998年に開館した。後発の国立新美術館(2007年開館、47,960m2)に次ぐことになったが、兵庫県立美術館(27,461m2)などを上回る日本第2位、私立では最大の美術館建築である。

展示されている作品の多くは、大塚グループの大塚オーミ陶業株式会社が開発した特殊技術によって、世界中の名画を陶器の板に原寸で焼き付けたものである。オリジナルの収集に拘るのではなく自社技術を用いてふんだんに作品を複製、展示するという構想は、企業の文化事業としての私立美術館の中でも非常に特異な試みといえる。美術教育に資するべく、作品は古代から現代に至るまで極めて著名、重要なものばかりを展示しており、これらを原寸で鑑賞することでその良さを理解し、将来実物を現地で鑑賞して欲しい、との願いが込められている。
陶板複製画は風水害や火災などの災害や光による色彩の退行に非常に強く、屋外でのサインボードや壁画に用いることのできる技術として開発された。そのため大塚国際美術館でも、展示室の中には写真撮影を禁じていない所や、屋外に作品が展示されている場所もある。屋外の庭園に展示されたモネの『睡蓮』などはその性質を生かした好例である。板を組み合わせることで大型化にも対応でき、ミケランジェロの『最後の審判』もオリジナルの展示環境全体を再現したシスティーナ・ホールに展示されている。このホールは2004年5月9日、衆議院議員の後藤田正純と水野真紀の結婚披露宴が行われたことでも有名となった。

琴平町(高知県)

琴平町(ことひらちょう)は香川県仲多度郡に属する町。 全国的に有名なこんぴらさん(金刀比羅宮)のある町で、多くの観光客で賑わう。その参道近くにある旧金毘羅大芝居では毎年春に「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催され、歌舞伎が上演されている。

ことでん琴平駅
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JR琴平駅