ひめゆりの塔 (沖縄県)

ひめゆりの塔(ひめゆりのとう)は、沖縄戦末期の激しい戦闘でほぼ全滅した沖縄陸軍病院第三外科壕の跡に立つ慰霊碑。現在の沖縄県糸満市にある。1946年4月7日除幕。

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなむ。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。 なお、植物のヒメユリとは関係がない。

「塔」と名はついているが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはない。これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。また、この種の慰霊碑は、沖縄県(特に沖縄本島)には非常に多くあり、ひめゆりの塔はそれらのうちで一番古いものではない(最古のものは、ひめゆりの塔と同じく金城夫妻らが米須霊域に建てた「魂魄の塔」(こんぱくのとう)であるとされている)。しかし、1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画がつくられ有名となった。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えない。

ひめゆりの塔から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。また、敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられている。

今帰仁城(沖縄県)

今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村にある城跡。14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つ・北山王の居城であった。国の史跡に指定されている。

城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多量に出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年(1422年説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となった。

現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に指定される。門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末~2月始めに開花する。本部町の八重岳などと並び、沖縄県の桜の名所として知られている。(※日本トランスオーシャン航空作成の壁掛けカレンダーの1月は最近数年間ここの桜景色が写真を飾っている)城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。

2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は今帰仁城跡)。

中城城(沖縄県)

中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡中城村に存在した日本の城。15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られる。城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられるが、築城の時期は不明。
中城城は当時貿易港であった屋宜港から2kmほど離れた標高約160mの丘陵上にあり、中城村の北西から西北から北中城村の南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。 石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。

創始は明らかではないが、14世紀後半ごろ先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた尚巴志の家臣、護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようだ。 増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられている。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっていることから、その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。
そして、1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)に攻められ自害して滅びる。その後、「中城王子の居城」→島津侵入(1609年)後は「番所」→廃藩置県(1879年)後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。
また、1609年以後の薩摩の植民地時代は、中国からの冊封使節団が来琉した際、薩摩の役人は自らの存在を中国に知られないためにここに隠れていたという伝承もある。

日本に開国を迫ったアメリカのマシュー・ペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れ、ここも訪ねた一行は城を見て、特に真ん中のアーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いている。

1945年(昭和20年)沖縄本島では太平洋戦争の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている(戦後に補修が行われた)。
1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった(中城高原ホテルを参照)。
1972年(昭和47年)5月15日(沖縄県の日本復帰の日)に国の史跡に指定された。指定面積は110,473m2(約33,400坪)でその内144,73m2(約4,300坪)が城郭の面積。現在は補修・復元工事がすすめられている。

2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は中城城跡)。

1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった。
中城高原ホテル(なかぐすくこうげんホテル)は沖縄県中頭郡中城村の中城城跡公園内に開業する予定であったホテルである。
中城城跡は、1955年に琉球政府文化財保護委員会(以下、委員会)により重要文化財として史跡・名勝の指定を受けたが、その後、中城城跡の管理、運営を行っていた中城公園組合(以下、組合)が、観光客誘致のためのホテル建設の計画を立てた。このホテル計画が「中城高原ホテル」建設の計画である。
当初の計画では、城の本丸(中城城では一の郭にあたる)に建設が予定されていたが、これにより前述の文化財指定が取り消される可能性もあった。この問題に対し、組合側はホテル建設による文化財指定解除の申請も辞さない態度を取り、一方の委員会側も「文化財毀損における刑罰」と組合側との対立の姿勢を見せた。この問題は政治問題にまで発展し、県民の世論を沸かせたが、最終的にはホテル建設を本丸から城壁外の高台に建設場所を変更することで決着した。
その後、沖縄海洋博の開催が決定した1970年代前半に建設が開始され、同博覧会開催の1975年7月20日開業を予定していたが、博覧会の開催直前に建設をしていた企業が倒産し、建設途中のまま工事が中断し30年以上放置されたままになり、廃墟と化している。

首里城 (沖縄県)

国営沖縄記念公園は美しい海に面し、沖縄の自然を満喫できる海洋博公園と、琉球の歴史文化を目の当たりにできる首里城公園からなります。首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。

琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。

喜屋武岬 (沖縄県)

喜屋武岬(きやんみさき)は、沖縄県糸満市喜屋武に属し、東シナ海に面する岬。北緯26度4分41秒、東経127度40分8秒。 沖縄戦跡国定公園に含まれる。

* 元の沖縄方言では「キャン」と発音しこれは「極み、突端」の意味で、喜屋武の漢字は当て字である。
* 沖縄本島最南端とされているが、実際には東側1kmに位置する荒崎の方が、やや南へ突出している。喜屋武岬自体は、平和之塔付近からほんの数十m海岸へ突出しただけの小さな岬。山手に喜屋武埼灯台がある。

ここには、沖縄戦で米軍に追いつめられ、自決するために大勢の民間人が身を投げたという悲しい歴史があります。

具志川城 (沖縄県)

具志川城は、沖縄本島最南端の糸満市字喜屋武の海岸断崖に立地する三方を海に囲まれるグスク。城跡は二つの郭で仕切られており、断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下がって二の丸さらに一段下がって本丸が海に突き出ている。石垣は珊瑚礁石灰岩の野面積みであるが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っている。城の規模は、長さが東西82~3メートル、南北の巾は二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルある。二の丸には「スーフチミー(潮吹き穴)」と呼ばれる自然穴があり海に通じている。

久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主 真金声(まかねくい)按司が伊敷索(いしきなわ)按司の二男真仁古樽(まにくたる)按司に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたといわれる。その真偽は不明であるが双方の立地や規模、構造は良く似ている。

発掘調査では13世紀中頃から15世紀中頃までの中国製陶磁器が出土している。本城跡はその特異な形状から1959年(昭和34年)12月16日琉球政府文化財保護委員会によって史跡指定を受け、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄の日本復帰に伴って同日付けで国指定記念物(史跡)となった。 糸満市教育委員会では、国(文化庁)と県(教育庁)の補助を得て、2000年(平成12年)度から2012年(平成24年)度までの13年計画で本城跡の保存修理事業を実施している。

石垣市 (沖縄県)

石垣市(いしがきし)は、沖縄県八重山諸島の政治、経済、産業、交通の中心地となっている市である。旧八重山支庁(現・沖縄県八重山事務所)所在地であり、数々の島から成り立つ隣接自治体である竹富町役場もある。

近年は、離島ブーム、ダイビングなどの海洋レジャーを目的に島外からの移住者が増え、人口の増加する現象が見られる。また、日本最南端・最西端に位置する市でもある。

沖縄県で西表島に次ぐ三番目に大きな石垣島と尖閣諸島からなる。
尖閣列島は現在では無人島なので、実質的には一島一市である。石垣島の南部は平地が多く、人口はここに集中している。北部は山がちで裏石垣と呼ばれる。古くはマラリアの蔓延する地域であったため、集落そのものが少ない。琉球王朝時代に強制移民が行われた歴史もある。
於茂登岳(526m、沖縄県最高峰)を中心とした山塊は照葉樹林に被われ、固有の動植物も多い。

2003年以降、本土からの移住者が急増し、住民票の移動だけでも3,000人、住民票を移さない人を含めると5,000人に達する(2005年4月現在)。本土の競争社会に見切りをつけ南国の楽園にあこがれて移住したり、退職した団塊の世代が老後の住処を求めて転入している。しかし、石垣島では目立った産業が無く、殊に若者の場合しっかりした計画を立てずに移住すると経済的に行き詰まるケースもある(読売新聞2005年4月12日付)。また転入した新住民が地元コミュニティーに関わろうとせず軋轢を生んだり乱開発によるインフラストラクチャー整備への負担増の問題もあり、ここへ来て開発や転入を規制する方向に向かいつつある(日経ビジネス2007年5月14日号)。

アリアケカズラ
ハイビスカス

ハマオモト
牧場 石垣牛は放し飼い
石垣島には狭いながらいくつかの小さなダムがあります

神戸空港 (兵庫県)

神戸空港(こうべくうこう)は、大阪の西26km、神戸市中心部三宮の南8kmに位置する地方管理空港である。兵庫県神戸市中央区の沖にある人工島ポートアイランド沖南側の人工島に建設された。国内97番目の空港で、第三種空港としては初めて建設・運営を市が手がける市営空港である。
2006年2月16日開港。近隣には大阪国際空港と関西国際空港が存在し、これによって関西三空港時代を迎えた。愛称は「マリンエア」で、2,500m滑走路1本を持つ海上空港である。空港3レターコードは元々神戸が持っていた都市コードであるUKBを使っている。なお、運賃取扱上は大阪と同一とみなされる。よって、都市コードの大阪OSAには伊丹ITM・関西KIX・神戸UKBの3空港が存在する。

空港島の造成や連絡橋(神戸スカイブリッジ)等を含めた建設費3140億のうち90%以上を神戸市が拠出して運営する。旭川空港・帯広空港に次いで国内3番目の市営空港となる。神戸市は、神戸空港の経済効果を約3,621億円と試算し、初年度においては約319万人の利用を見込んでいたが、実際には269万7,279人(搭乗率61.1%)と予想を下回った。

空港開港に合わせて、ポートライナーが延伸されて三宮駅から最速16分半で結ばれており、神戸空港駅から空港ターミナルビルまでは約10mの連絡通路でつながっている。2006年7月より、関西国際空港との間を高速艇が約30分で結ぶ航路が新設された。

2006年9月28日より『国際ビジネスジェット』が就航したため、税関や入国管理・検疫などを扱う出入国審査室が旅客ターミナルビル一階に設けられた。ビジネスジェット到着時に関係職員が臨時的に対応するようになっているが、利用申請が2週間前(入国時)までと早い、時間も平日の9時-17時のみの対応と限られる、植物検疫ができないので機内のゴミが捨てられない、など実質的な利便性は十分と言えない。

着陸料は、座席数300席弱の航空機で1回14万円程で大阪国際空港(伊丹空港)の半分、東京国際空港(羽田空港)・中部国際空港の3分の2になり他空港や新幹線に対して競争力を高めている。また、駐車場は1,250台分設置し、1時間150円、24時間1,500円となる(ただし、航空機利用者は最初の24時間無料、以降24時間1,000円。※保安検査内および到着ロビー内で精算するため、航空機利用者以外は特例を活用できない)。

神戸空港には採算・安全性に対する不安を指摘する意見もある。採算面では、空港建設で発行した市債の返済財源に空港関連施設用地82.6haの売却益をあてる計画である。しかし、2009年1月時点で4.9ha(全体の約6%)が売却されたのみであるなど、用地売却については不調であり、神戸市は期間限定で割引などの優遇策を導入する方針であると報道されている。