筑波山神社(茨城県)

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筑波山神社(つくばさんじんじゃ)は茨城県つくば市筑波にある神社。 古代より山岳信仰の対象とされてきた筑波山を境内とし、男体山頂に筑波男大神(伊弉諾尊)を、女体山頂に筑波女大神(伊弉冉尊)を祀る本殿が建てられており、拝殿は筑波山南面の中腹にある。社格は、式内社(筑波男大神は名神大社、筑波女大神は小社)、旧県社(現、神社本庁の別表神社)。(2009/02記)

入口
御神橋(県指定文化財)
階段を上ると八脚楼門です
伝統のガマの油売りの立ち回りを保存する会の方が、演じていらっしゃいます。

八坂神社 (鹿児島県鹿児島市)

八坂神社(やさかじんじゃ)は、鹿児島県鹿児島市にあるJR九州鹿児島駅の北東約500mの多賀山公園内に鎮座する神社である。 鹿児島五社」のうちの第二位の神社。

戦国時代に島津氏によって勧請されたと言われるが、史料が焼失したため詳しいことは不詳である。

もともとは稲荷川の上流にあったが享保9年(1724年)にそれまで山越えの古道を主街道としていたのを海側の磯街道に切り替えたため、八坂神社も移転された。天保年間には稲荷川の浚渫整備工事が進んだが、八坂神社の向かいに当たる土地に廃土が積まれたためその土地は「祇園之州」と呼ばれるようになった。嘉永6年(1856年)、島津斉彬の命により、この祇園之州に砲台が築かれ薩英戦争での主戦場の一つとなる。

このようにたびたび戦禍に遭い、現在残っている建物は戦後に復興された物である。

高千穂神社(宮崎県)

高千穂神社(たかちほじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社である。国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の有力な論社であるが、近代社格制度上は村社にとどまった。現在は神社本庁の別表神社となっている。

古来「十社(じっしゃ)大明神」や「十社宮」などと称されて来たが、明治4年(1871年)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895年)現社名に改称した。

天岩戸神社(宮崎県)

天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社である。岩戸川を挟んで東本宮と西本宮がある。旧社格は村社で、神社本庁の別表神社。

西本宮の旧称は「天磐戸神社」、東本宮は「氏社」であったが、明治4年(1871年)にそれぞれ「天岩戸神社」、「氏神社」と改称し、昭和45年に合併、現在のごとく天岩戸神社東西両本宮を称すようになった。

* 天安河原(あまのやすかわら) – 西本宮から岩戸川を500mほど遡った所にある河原で、岩戸隠れの際に八百万の神々が集まって相談した場所であると伝えられている。河原の中央部にある仰慕窟(ぎょうぼがいわや)と呼ばれる洞窟には天安河原宮があり、思兼神を主祭神として八百萬神が祀られている。
* 天の浮橋 – 天保8年(1837年)に西本宮を訪れた松浦武四郎の紀行文(『西海雑志』)に、拝殿から岩戸川を見下ろすと、橋のような物があり、これを「天の浮橋」と俗称すると記している。

戸隠神社(とがくしじんじゃ)

戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、長野県長野市北西部の戸隠山周辺に、以下に記す五社を配する神社である。
一説には現在の奥社の創建が孝元天皇五年(紀元前210年)とも言われるが、縁起によれば学問なる僧が奥社の地で最初に修験を始めたのが嘉祥2年(849年)とされている。
その後平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。山麓の善光寺とも関連を強め、参詣者は一度に両寺を共に参詣することが多かった。
戦国時代は武田信玄と上杉謙信との争乱に巻き込まれ、両軍によって絶えず危機に晒されたため、衆徒らが約30年間にわたり水内郡小川の筏が峰(現在の長野県上水内郡小川村)に移り住むなど苦境の時期であった。しかし、江戸時代に入り徳川家康から朱印高千石を与えられて「戸隠山領」が成立。同時に東叡山寛永寺の末寺となり、次第に農業や水の神としての性格が強まり、山中は次第に修験道場から門前町へと変貌していった。
明治時代に入ると明治政府によって神仏分離令や修験宗廃止令が次々と出され、その結果廃仏毀釈運動が起きたため、戸隠山顕光寺は寺を分離して神社となり、宗僧は還俗して神官となった。(2008/11 wikipediaより)

 戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東比叡寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。(2008/11 戸隠神社HPより)

宝光社

出雲大社(島根県)

出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。 古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。

住吉大社(大阪府)

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住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社である。式内社(名神大社)、二十二社、摂津国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。日本全国の住吉神社の総本社である。ただし、住吉三神を祀る神社の中で最も古いものは明確ではなく、博多の住吉神社や壱岐市の住吉神社や神戸市の本住吉神社が有力である。とされる。

住吉大社駅方向を臨む
反橋
御田方向より反橋を臨む
住吉鳥居
手水舎より反橋を臨む
北西より第四本宮を臨む
第一本宮

神田明神(東京都)

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正式名称・神田神社。 東京の中心―神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場―、108町会の総氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。

御茶ノ水駅側入口付近

伊勢神宮(三重県)

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伊勢神宮(いせじんぐう)は三重県伊勢市にある神宮の俗称。神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は神宮。ほかの神宮と区別する場合には伊勢の神宮と呼ぶ。神道の神社では別格とされ、格付けはされない。

建物は皇大神宮(こうたいじんぐう)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)からなる。通常は皇大神宮を内宮(ないくう)と呼び、豊受大神宮を外宮(げくう)と呼ぶ。内宮は天照大神(あまてらすおおみかみ)、外宮は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祭る。近世江戸時代を除いて、古代から政治的権威と結びつくことが多かった。

広くは、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた一連の社宮を神宮と総称する。この場合、所在地は伊勢市にとどまらずまたがる。

外宮
五十鈴川沿
残念ながら赤福はまだ営業を自粛しておりました。