輪島市朝市(わじましあさいち)

昔々、物々交換を行ったことが今の市の起源とされています。輪島では神社の祭日ごとに物々交換の市が立ったと言われています。これが輪島の市の始まりとされていて一千年以上も前から続いています。こうした古い歴史のなかで育まれてきた輪島の朝市には、売る者と買う者との心の触れ合いが生まれてきました。売る者も女、買う者も女の朝市。町の一日は、朝市の「買うてくだぁー」の呼び声から始まります。
朝市の露店の場所は親から子へ、子から孫へと何代も引き継がれているのです。野菜などは周辺農家のおばちゃん、活きのいい魚貝・海草は漁師町の女衆が売りに出ます。輪島の女は働き者で「亭主の一人や二人養えない女は甲斐性なし」と自負しているのです。朝市で売られるものに「値札」はあまり付いていません。値段は交渉しだい、買い手も売り手もこれを楽しんでいるのです。輪島を訪れた都会の主婦は「朝市で買って、料理をすれば、どんなに楽しいだろう」、「活きのいい魚、艶のある野菜、気安く、気軽に買える輪島の朝市が何よりもうらやましい」と言います。
毎月10日、25日及び正月3ケ日は朝市はお休みです(10日、25日は地物市が開かれます)。

金沢21世紀美術館(石川県)

【参考】金沢21世紀美術館

金沢21世紀美術館(かなざわにじゅういちせいきびじゅつかん)は石川県金沢市広坂にある現代美術を収蔵した美術館。愛称まるびぃ(由来は「丸い美術館」)。
もと金沢大学附属中学校・小学校・幼稚園があった場所に、2004年10月9日に開館した。観光客の多く立ち寄る兼六園の真弓坂口の斜め向かいに当たり、金沢城を復元中の金沢城公園の入口からも近い。繁華街の香林坊や片町からも徒歩圏内にある、市の中心部に立地した都心型の美術館。周囲には石川近代文学館、石川県立美術館、石川県立歴史博物館などテーマの異なる芸術関連施設があり、文化ゾーンを形成している。

兼六園(けんろくえん)

金沢市の中心部に位置し、旧百間堀を道路とした百間堀通り(百万石通り)を橋で渡ったところの石川門から、金沢城を復元中の金沢城公園へと続いている。

加賀屋(かがや)

加賀屋(かがや)は、石川県七尾市に本社を置く旅館業を営む企業、ならびに温泉旅館の名称。屋号は、創業者の小田與吉郎が加賀国津幡(現:石川県河北郡津幡町)の出身であることに由来する。和倉温泉の筆頭旅館の地位を占め、地上20階、約1,300名の収容人員を持つ全国最大級の旅館。

2008年1月、旅行新聞新社が主催する「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」(全国の旅館業者により選定)の総合部門1位として認定・表彰されている。この「プロが選ぶ日本のホテル旅館100選」では、28年連続で加賀屋が1位となっている。また、姉妹旅館として「茶寮の宿 あえの風」(和倉温泉)を有するほか、東京・大阪などにレストランを展開している。

台湾ディベロッパーと合弁で2010年、台北市北投区の北投温泉に「加賀屋 北投」を開業予定。

石川県能登島ガラス美術館

ホームページ

当館は、毛綱毅曠(もづなきこう)氏(1941~2001)の設計によるガラス芸術専門の美術館です。世界各国の現代ガラス作家の造形作品を中心に、20世紀最後の巨匠とも呼ばれるダリとフランスのドーム社との共同制作による造形作品や、ピカソやジャン・コクトーなど20世紀の著名な芸術家たちの案をもとにヴェネチアのガラス工房で作られた造形作品、また中国清朝時代のガラス工芸品を収蔵展示しています。定期的に古今東西のガラス作品についての企画展や、ガラスを身近に楽しめるワークショップを開催しています。

〒926-0211
石川県七尾市能登島向田町125部10番地
TEL 0767-84-1175 FAX 0767-84-1129

あめの俵屋(あめの俵屋)

金沢で一番古いあめ屋。それは創業天保元年、連綿百七十余年の伝統を誇る俵屋でこざいます。俵屋のあめは、創業のころ初代次右衛門が、乳飲み子を抱えながらも母乳が出ず困り果てていた母親達の姿を見て、何とか母乳のかわりになる栄養価の高い食品はないかと考えた末に作り上げたのがはじめといわれております。俵屋のあめの原料は良質の米と大麦。砂糖がわたしたちの生活に入ってくる以前に、穀物の甘味を得た、先人の知恵。創業以来の技を今に伝える、職人の心。百万石の城下町金沢の歴史とともに生き続けてきた、この食文化をしっかりと守りたい。それが俵屋のあめづくりに込める想いなのです。

相楽園(そうらくえん)

相楽園(そうらくえん)は兵庫県神戸市中央区にある広さ20,000m2の都市公園・日本庭園。日本の文化財保護法に基づく登録記念物の最初の登録物件である。ツツジの名所として知られる。

三田藩士・小寺泰次郎が幕末から明治維新の混乱で困窮する三田藩の財政を立て直すべく、九鬼隆義、白洲退蔵(白洲次郎の祖父)らとともに神戸で事業を起こし実業家として成功を収め、小寺の私邸として建設されたもので、1885年頃から築造を始め1911年に完成させた広大な庭園と邸宅である。当初「蘇鉄園」と呼ばれていたが1941年に神戸市が譲り受け、名称を中国古書にある「和悦相楽」より取った「相楽園」と変えて一般公開されるようになった。

庭園の形式は池泉回遊式を基本としているが、西洋文化の影響をうけて広場が設けられている。戦前までは園内に小寺家本邸をはじめとする多数の建造物があった。しかし西洋風の旧小寺家厩舎(重要文化財)以外は全て1945年6月の神戸大空襲により焼失した。現存する大楠や蘇鉄林、大灯篭、塀、門などから失われた邸宅の雄大さをうかがうことができる。

第二次大戦後になって神戸市生田区(現・中央区)北野町から旧ハッサム住宅(重要文化財)が移築保存され、神戸市の迎賓館施設として相楽園会館、茶室「浣心亭」が建設され、さらに神戸市垂水区から船屋形(重要文化財)が移設されて現在の景観に至る。

相楽園菊花展

相楽園・絵画展

庭園

毘沙門堂(びしゃもんどう)

毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。

寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。

前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。

建久6年(1195年)の平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(かずらわらしんのう、786 – 853)の創建で、太秦(うずまさ、現京都市右京区)に所在。尊重寺は平親信(945 – 1017)の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、本尊だけが大原(京都市左京区大原)に移されたものという。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。

この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。後西天皇皇子の公弁法親王(1669 – 1716)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。

おまけ

如意ヶ岳(にょいがたけ)(大文字山(だいもんじやま))

一言で言えば「大」の字が付いている標高465mの三角点のある山。東山三十六峰の中心の山と言ってよい。誰でも簡単に見つけられる。 国土地理院の地図には「大文字山」と書かれている。本当の如意ヶ嶽はさらに東へかなり進んだところにある。京都市内からは見えない、標高は472m。山頂からは南方面が開けているだけだが、「大」の字の火床からは京都市街が気持ち良く一望できる。読みは意外と難しく「にょいがたけ」か「にょいがだけ」(濁る)か。「にょいがたけ」(濁らない)の方が多いようではある(雍州府志の現代語訳では濁るルビがふってある)。山頂は「鹿ヶ谷大黒谷町」にある。
三等三角点(鹿ヶ谷)のある地点が山頂。この地点は「大文字山」と呼ばれる。この山頂にはかつて「如意岳(嶽)城」があった。京都市遺跡地図台帳には「応仁文明の乱頃(1467-1487)すでに陣塞化。細川高国・足利義輝なども城塞を利用。標高466mの山頂を本丸とする。東西尾根約1kmに空堀・土塁・腰郭が良好に残る」と記載されている。築城は、文明年間(1469-1487)多賀忠高によるという説が有力。 三等三角点は、N35度00分59秒146・E135度48分52秒357、標高465.44m。三角点の他に、建設省国土地理院の「菱形基線測点」(八角形の大きな石柱)も置いてある。 

哲学の道(てつがくのみち)

哲学の道(てつがくのみち)は京都市左京区の道路である。南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疎水の両岸に植えられた桜はみごとで、春や紅葉の秋は多くの観光客でにぎわう。哲学者・西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われる。「思索の小径」と呼ばれていたものが、いつしか「哲学の道」と呼ばれるようになったとされ、1972年に正式に銘々。「日本の道100選」にも選ばれている散歩道である。

道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。

哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪の夫人が大正年間、京都市に苗木を寄贈したのに始まる。当初の木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、植え替えられ、手入れされ現在に至っている。今でも「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれている。