Weeklyテーマ 第2回「地方創生」について(インタービュー・追加)

某役所でのヒアリング模様


1 日時
  2023年10月

2 対応者
  相手方 企画課マネジメント(役所内会議室にて)

3 主なやり取り模様(先方:〇、当方△)
(△) お伺いしたのは、「地方創生の現状と課題」についてレポートして欲しいとの話があり当地の実情をお聞きするためです。最近、地方創生に関する新聞やテレビでの報道が見かけなくなりましたが、この点どのように見ていますか。
(〇) 地方創生は以前に比べ、一応落ち着いてきているからではないかと思う。岸田政権では、あまり力を入れていないこともあろうかと思います。ただ、岸田政権では、デジタル田園都市構想を打ち出しており、その方向に動いていくものと思われる。人口は、1都3県から分散するのではないか。
(△) 地方創生の課題はどうですか。
(〇) 高齢化に伴う人口減が大きな問題です。すなわち出生率の改善が今後の課題です。当地の場合、人口の推移をみると、令和XX年のX万人をピークに令和XX年には今よりX万人減のX万人(約1~2割減)になる予想です。
(△) 当地の場合、地方創生で力を入れているのはどの分野ですか。
(〇) 教育面で力を入れています。
(△) 具体的にはどういうことでしょうか。
(〇) 小学生の生徒には早くから全員にタブレット端末を配備しています。
(△) 何か参考にいただける資料はないでしょうか。
(〇) お渡しすることはできませんが、まち、ひと、しごと創生総合戦略については、のホームページに掲載されていますので、こちらを参考にしてください。また、全国的な状況は、総理府のホームページをご覧ください。
(△) 地方創生にかかる予算ですが、どのくらい措置されているのですか。
(〇) 取組計画を策定し県の方に予算要求しており、年間予算はX千万円ほどですが、マンパワーが十分ではなす取組みに苦慮しているのが実情です。

熊本城 (熊本県)

熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市にある城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。

南方に向って張り出した丘陵の広い尖端部とその裾を占めた平山城であり、もとは茶臼山という丘を中心とし、旧千葉城跡および古城の地域などにわたっている。現在の、熊本県熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

安土桃山時代末期から江戸時代前後にかけて加藤清正によって、中世の千葉城、戦国時代の隈本城を取り込み、現在のような姿の熊本城が築かれた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。

細川氏の居城となった後もほとんど改変はなく明治初頭までは、大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争により一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失し、現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、改修された部分があるもののほぼ創建当初の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

旧細川刑部邸(熊本県)

旧細川刑部邸(きゅうほそかわぎょうぶてい)は、熊本県熊本市の熊本城三の丸跡にある武家屋敷である。なお、細川刑部家(子飼細川とも言う)は細川内膳家(砂取細川)と並ぶ細川藩の一門家臣家(いずれも江戸期は長岡姓)であった。

この刑部屋敷は熊本藩主となった細川忠利の弟細川興孝が刑部家をおこしたのち、現在の熊本市東子飼町に立てられた屋敷で、1993年(平成5年)に現在地に移築された。熊本県指定有形文化財となっている。

ひめゆりの塔 (沖縄県)

ひめゆりの塔(ひめゆりのとう)は、沖縄戦末期の激しい戦闘でほぼ全滅した沖縄陸軍病院第三外科壕の跡に立つ慰霊碑。現在の沖縄県糸満市にある。1946年4月7日除幕。

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなむ。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。 なお、植物のヒメユリとは関係がない。

「塔」と名はついているが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはない。これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。また、この種の慰霊碑は、沖縄県(特に沖縄本島)には非常に多くあり、ひめゆりの塔はそれらのうちで一番古いものではない(最古のものは、ひめゆりの塔と同じく金城夫妻らが米須霊域に建てた「魂魄の塔」(こんぱくのとう)であるとされている)。しかし、1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画がつくられ有名となった。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えない。

ひめゆりの塔から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。また、敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられている。

今帰仁城(沖縄県)

今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村にある城跡。14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つ・北山王の居城であった。国の史跡に指定されている。

城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多量に出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年(1422年説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となった。

現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に指定される。門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末~2月始めに開花する。本部町の八重岳などと並び、沖縄県の桜の名所として知られている。(※日本トランスオーシャン航空作成の壁掛けカレンダーの1月は最近数年間ここの桜景色が写真を飾っている)城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。

2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は今帰仁城跡)。

中城城(沖縄県)

中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡中城村に存在した日本の城。15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られる。城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられるが、築城の時期は不明。
中城城は当時貿易港であった屋宜港から2kmほど離れた標高約160mの丘陵上にあり、中城村の北西から西北から北中城村の南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。 石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。

創始は明らかではないが、14世紀後半ごろ先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた尚巴志の家臣、護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようだ。 増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられている。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっていることから、その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。
そして、1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)に攻められ自害して滅びる。その後、「中城王子の居城」→島津侵入(1609年)後は「番所」→廃藩置県(1879年)後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。
また、1609年以後の薩摩の植民地時代は、中国からの冊封使節団が来琉した際、薩摩の役人は自らの存在を中国に知られないためにここに隠れていたという伝承もある。

日本に開国を迫ったアメリカのマシュー・ペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れ、ここも訪ねた一行は城を見て、特に真ん中のアーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いている。

1945年(昭和20年)沖縄本島では太平洋戦争の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている(戦後に補修が行われた)。
1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった(中城高原ホテルを参照)。
1972年(昭和47年)5月15日(沖縄県の日本復帰の日)に国の史跡に指定された。指定面積は110,473m2(約33,400坪)でその内144,73m2(約4,300坪)が城郭の面積。現在は補修・復元工事がすすめられている。

2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は中城城跡)。

1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった。
中城高原ホテル(なかぐすくこうげんホテル)は沖縄県中頭郡中城村の中城城跡公園内に開業する予定であったホテルである。
中城城跡は、1955年に琉球政府文化財保護委員会(以下、委員会)により重要文化財として史跡・名勝の指定を受けたが、その後、中城城跡の管理、運営を行っていた中城公園組合(以下、組合)が、観光客誘致のためのホテル建設の計画を立てた。このホテル計画が「中城高原ホテル」建設の計画である。
当初の計画では、城の本丸(中城城では一の郭にあたる)に建設が予定されていたが、これにより前述の文化財指定が取り消される可能性もあった。この問題に対し、組合側はホテル建設による文化財指定解除の申請も辞さない態度を取り、一方の委員会側も「文化財毀損における刑罰」と組合側との対立の姿勢を見せた。この問題は政治問題にまで発展し、県民の世論を沸かせたが、最終的にはホテル建設を本丸から城壁外の高台に建設場所を変更することで決着した。
その後、沖縄海洋博の開催が決定した1970年代前半に建設が開始され、同博覧会開催の1975年7月20日開業を予定していたが、博覧会の開催直前に建設をしていた企業が倒産し、建設途中のまま工事が中断し30年以上放置されたままになり、廃墟と化している。

首里城 (沖縄県)

国営沖縄記念公園は美しい海に面し、沖縄の自然を満喫できる海洋博公園と、琉球の歴史文化を目の当たりにできる首里城公園からなります。首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。

琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。

喜屋武岬 (沖縄県)

喜屋武岬(きやんみさき)は、沖縄県糸満市喜屋武に属し、東シナ海に面する岬。北緯26度4分41秒、東経127度40分8秒。 沖縄戦跡国定公園に含まれる。

* 元の沖縄方言では「キャン」と発音しこれは「極み、突端」の意味で、喜屋武の漢字は当て字である。
* 沖縄本島最南端とされているが、実際には東側1kmに位置する荒崎の方が、やや南へ突出している。喜屋武岬自体は、平和之塔付近からほんの数十m海岸へ突出しただけの小さな岬。山手に喜屋武埼灯台がある。

ここには、沖縄戦で米軍に追いつめられ、自決するために大勢の民間人が身を投げたという悲しい歴史があります。

石橋記念公園(鹿児島県)

石橋記念公園(いしばしきねんこうえん)は、鹿児島県鹿児島市浜町にある公園。江戸時代後期、島津重豪の命により市内を流れる甲突川(こうつきがわ)にかけられた5つの石橋のうち3つを移設した公園とその博物館から成り立っている。

1993年(平成5年)8月6日、鹿児島県集中豪雨(8・6水害)による洪水のため、島津重豪の命で作られ現存していた玉江橋(たまえばし)、新上橋(しんかんばし)、西田橋(にしだばし)、高麗橋(こうらいばし)、武之橋(たけのはし)の「五石橋」と呼ばれる石橋群の内、「武之橋」と「新上橋」が流失し、他の三橋も甚大な被害を受けた。

この後、橋を洪水のない場所に移築するか、原状回復するかで大問題となったが、結局、残った三橋は別の場所に移築することとなり、2000年(平成12年)に石橋記念公園として開園した。橋の移築問題は交通・河川整備と史跡保護の兼ね合いの難しさを証明する出来事となった。

高千穂神社(宮崎県)

高千穂神社(たかちほじんじゃ)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある神社である。国史見在社「高智保皇神(高智保神)」の有力な論社であるが、近代社格制度上は村社にとどまった。現在は神社本庁の別表神社となっている。

古来「十社(じっしゃ)大明神」や「十社宮」などと称されて来たが、明治4年(1871年)に「三田井神社」と改称、更に同28年(1895年)現社名に改称した。