毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗の寺院。山号は護法山。護法山安国院出雲寺とも称す。本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一であり、「毘沙門堂門跡」とも呼ばれる。
寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。その後、平安時代末期には出雲寺は荒廃していたが、鎌倉時代初期、平親範が平家ゆかりの3つの寺院を合併する形で再興。中世末期には再び荒廃していたが、近世に至り、天海とその弟子の公海によって現在地に移転・復興され、天台宗京都五門跡の一として栄えた。
前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平城京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。
建久6年(1195年)の平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、同年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を併合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(かずらわらしんのう、786 – 853)の創建で、太秦(うずまさ、現京都市右京区)に所在。尊重寺は平親信(945 – 1017)の創建で、五辻(京都市上京区)に所在。護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、本尊だけが大原(京都市左京区大原)に移されたものという。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継いで護法山出雲寺と称し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘沙門天像を本尊としていた。中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。
この鎌倉復興の出雲寺もやがて荒廃したが、慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台宗の僧で徳川家康とも関係の深かった天海によって復興が開始された。江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。後西天皇皇子の公弁法親王(1669 – 1716)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。