熊本城 (熊本県)

熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市にある城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。

南方に向って張り出した丘陵の広い尖端部とその裾を占めた平山城であり、もとは茶臼山という丘を中心とし、旧千葉城跡および古城の地域などにわたっている。現在の、熊本県熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

安土桃山時代末期から江戸時代前後にかけて加藤清正によって、中世の千葉城、戦国時代の隈本城を取り込み、現在のような姿の熊本城が築かれた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。

細川氏の居城となった後もほとんど改変はなく明治初頭までは、大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争により一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失し、現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、改修された部分があるもののほぼ創建当初の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和初期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

今帰仁城(沖縄県)

今帰仁城(なきじんぐすく、なきじんじょう、別名:北山城(ほくざんじょう、ほくざんぐすく))は、沖縄県国頭郡今帰仁村にある城跡。14世紀に琉球王国三山時代の三山の一つ・北山王の居城であった。国の史跡に指定されている。

城内からは中国や東南アジアなどの陶磁器が多量に出土し、往時の繁栄をうかがわせる。北山は尚巴志に1416年(1422年説もある)に滅ぼされるが、北山が滅ぼされた後も旧北山統治の要所として引き続き使用され、北山監守が派遣された。1609年の薩摩藩による琉球侵攻の際には、その攻撃の第一目標となった。

現在も石垣などの遺構の整備が進み、今帰仁城跡として1972年(昭和47年)5月15日に国の史跡に指定される。門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右にはカンヒザクラの並木があり、毎年1月末~2月始めに開花する。本部町の八重岳などと並び、沖縄県の桜の名所として知られている。(※日本トランスオーシャン航空作成の壁掛けカレンダーの1月は最近数年間ここの桜景色が写真を飾っている)城内には志慶真乙樽歌碑や山北今帰仁城監守来歴碑記などの碑もある。

2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された(登録名称は今帰仁城跡)。

中城城(沖縄県)

中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡中城村に存在した日本の城。15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られる。城壁の増築により現在みられる規模になったと考えられるが、築城の時期は不明。
中城城は当時貿易港であった屋宜港から2kmほど離れた標高約160mの丘陵上にあり、中城村の北西から西北から北中城村の南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。 石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。

創始は明らかではないが、14世紀後半ごろ先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた尚巴志の家臣、護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようだ。 増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられている。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっていることから、その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。
そして、1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)に攻められ自害して滅びる。その後、「中城王子の居城」→島津侵入(1609年)後は「番所」→廃藩置県(1879年)後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。
また、1609年以後の薩摩の植民地時代は、中国からの冊封使節団が来琉した際、薩摩の役人は自らの存在を中国に知られないためにここに隠れていたという伝承もある。

日本に開国を迫ったアメリカのマシュー・ペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れ、ここも訪ねた一行は城を見て、特に真ん中のアーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いている。

1945年(昭和20年)沖縄本島では太平洋戦争の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている(戦後に補修が行われた)。
1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった(中城高原ホテルを参照)。
1972年(昭和47年)5月15日(沖縄県の日本復帰の日)に国の史跡に指定された。指定面積は110,473m2(約33,400坪)でその内144,73m2(約4,300坪)が城郭の面積。現在は補修・復元工事がすすめられている。

2000年11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は中城城跡)。

1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった。
中城高原ホテル(なかぐすくこうげんホテル)は沖縄県中頭郡中城村の中城城跡公園内に開業する予定であったホテルである。
中城城跡は、1955年に琉球政府文化財保護委員会(以下、委員会)により重要文化財として史跡・名勝の指定を受けたが、その後、中城城跡の管理、運営を行っていた中城公園組合(以下、組合)が、観光客誘致のためのホテル建設の計画を立てた。このホテル計画が「中城高原ホテル」建設の計画である。
当初の計画では、城の本丸(中城城では一の郭にあたる)に建設が予定されていたが、これにより前述の文化財指定が取り消される可能性もあった。この問題に対し、組合側はホテル建設による文化財指定解除の申請も辞さない態度を取り、一方の委員会側も「文化財毀損における刑罰」と組合側との対立の姿勢を見せた。この問題は政治問題にまで発展し、県民の世論を沸かせたが、最終的にはホテル建設を本丸から城壁外の高台に建設場所を変更することで決着した。
その後、沖縄海洋博の開催が決定した1970年代前半に建設が開始され、同博覧会開催の1975年7月20日開業を予定していたが、博覧会の開催直前に建設をしていた企業が倒産し、建設途中のまま工事が中断し30年以上放置されたままになり、廃墟と化している。

具志川城 (沖縄県)

具志川城は、沖縄本島最南端の糸満市字喜屋武の海岸断崖に立地する三方を海に囲まれるグスク。城跡は二つの郭で仕切られており、断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下がって二の丸さらに一段下がって本丸が海に突き出ている。石垣は珊瑚礁石灰岩の野面積みであるが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っている。城の規模は、長さが東西82~3メートル、南北の巾は二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルある。二の丸には「スーフチミー(潮吹き穴)」と呼ばれる自然穴があり海に通じている。

久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主 真金声(まかねくい)按司が伊敷索(いしきなわ)按司の二男真仁古樽(まにくたる)按司に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたといわれる。その真偽は不明であるが双方の立地や規模、構造は良く似ている。

発掘調査では13世紀中頃から15世紀中頃までの中国製陶磁器が出土している。本城跡はその特異な形状から1959年(昭和34年)12月16日琉球政府文化財保護委員会によって史跡指定を受け、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄の日本復帰に伴って同日付けで国指定記念物(史跡)となった。 糸満市教育委員会では、国(文化庁)と県(教育庁)の補助を得て、2000年(平成12年)度から2012年(平成24年)度までの13年計画で本城跡の保存修理事業を実施している。

津山城(兵庫県)

津山城(つやまじょう)は日本の城。所在地は岡山県津山市。別名・鶴山城(かくざんじょう)。国の史跡。

津山城についてはこちらをご覧ください。

津山駅を降りて
北側へ進み吉井川を渡ると
津山城が見えてきます
南側から行くと
かなり入り組んだ石垣の造りです
修復されたばかりの備中櫓を仰ぎながら登ります
1,000本桜はなかなかのものです
備中櫓

松江城(島根県)

松江城(まつえじょう)は島根県松江市殿町にある城。別名・千鳥城。国の史跡に指定されている。指定管理者制度に則り、NPO法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。

日本に12箇所しか現存しない、江戸時代以前建造の天守を有する城郭の一つである(現存天守)。また中国地方の県庁所在地に所在する唯一の現存天守でもある。

松江市街の北部に位置し、南に流れる大橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲んでいる。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。

高さ30m、5層6階の天守は桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されている。

江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となった。現在は松江城山公園として観光名所となっている。

宍道湖の眺望が良く日本三大湖城の一つとなっている。また、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。

一ノ門
松江郷土館