松江城(島根県)

松江城(まつえじょう)は島根県松江市殿町にある城。別名・千鳥城。国の史跡に指定されている。指定管理者制度に則り、NPO法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。

日本に12箇所しか現存しない、江戸時代以前建造の天守を有する城郭の一つである(現存天守)。また中国地方の県庁所在地に所在する唯一の現存天守でもある。

松江市街の北部に位置し、南に流れる大橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲んでいる。二の丸の南には一段低く三の丸が配されている。

高さ30m、5層6階の天守は桃山様式の天守として築城当時のまま現存しており、国の重要文化財に指定されている。

江戸時代には松江藩の藩庁として、出雲地方の政治経済の中心となった。現在は松江城山公園として観光名所となっている。

宍道湖の眺望が良く日本三大湖城の一つとなっている。また、桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。

一ノ門
松江郷土館

石見銀山(島根県)

石見銀山(いわみぎんざん)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての日本最大の銀山。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国指定の史跡に登録された。2007年(平成19年)に、ユネスコの世界遺産への登録が決定された。同年、日本の地質百選に選定された。

石見銀山の発見について『石見銀山旧記』は鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩のお告げにより銀を発見したという伝説について記しており、この頃からある程度の採掘がなされていたものと考えられているが、今日、石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞(姓については神屋、名については寿禎・寿亭とも表記される)であるとされている[1]。海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て1526年(大永6年)3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530年(享禄3年)に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き中国渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功した。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。灰吹法確立以前は、鞆ヶ浦(仁摩町)・沖泊(温泉津町)から鉱石のまま積み出され取引された。

町並み

五百羅漢

石窟五百羅漢は、銀山で働いて亡くなった人々や祖先を供養するためにと月海浄印が発願し、25年もの歳月をかけて1766年に完成しました。羅漢寺はこの五百羅漢を護るために建立されました。
 羅漢寺から道をはさんで向かい側、銀山川に架かる石の反り橋を渡ると、岩山に3つの石窟が掘られています。この左右の石窟に、合計501体の羅漢像が安置されています。

山道

銀山までは山道を通って行きます。

cafe 住留

石見銀山で食事をとるならここ。

出雲大社(島根県)

出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。 古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。

足立美術館(島根県)

足立美術館(あだちびじゅつかん)は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした私立美術館である。

横山大観をはじめとする近代日本画と日本庭園で知られる足立美術館は、地元出身の実業家・足立全康(あだちぜんこう、1899-1990)が昭和45年(1970)、71歳のときに開館したものである。質量ともに日本一として知られる大観の作品は総数130点にのぼり、足立コレクションの柱となっている。大観のほかにも、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら近代日本画壇の巨匠たちの作品のほか、北大路魯山人、河井寛次郎の陶芸、林義雄、鈴木寿雄らの童画、平櫛田中の木彫なども収蔵している。

足立全康は裸一貫から事業を起こし、一代で大コレクションをつくりあげたが、その絵画収集にかける情熱は並外れたものであったらしく、数々の逸話が残されている。なかでも大観の名作『紅葉』と『雨霽る』(あめはる)を含む「北沢コレクション」を昭和54年(1979)に入手した際の武勇談は有名である。

足立美術館のもう一つの特色は、その広大な日本庭園である。庭園は「枯山水庭」「白砂青松庭」「苔庭」「池庭」など6つに分かれ、面積1万3千坪に及ぶ。全康自らが、全国を歩いて庭石や松の木などを捜してきたという。専属の庭師や美術館スタッフが、毎日手入れや清掃を行っていて「庭園もまた一幅の絵画である」という全康の言葉通り、絵画のように美しい庭園は国内はもとより海外でも評価が高い。 日本庭園における造園技法のひとつである借景の手法が採られ、彼方の山や木々までも取り込んで織り成す造形美は秀逸であり、上述の逸話と併せて、実際に庭園を見て、安いとはいえない入館料にも納得、という向きもある。

米国の日本庭園専門雑誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」Journal of Japanese Gardening の日本庭園ランキング(Shiosai Ranking)では、全国731箇所の名所・旧跡を対象に「庭そのものの質の高さ」「建物との調和」「利用者への対応」などを総合的に判断し、初回となる2003年ランキングから2007年まで、5年連続で庭園日本一に選出されている。2位は京都の桂離宮。

鳥取市(鳥取県)

鳥取市(とっとりし)は、中国地方の北東部、鳥取県東部に位置する市。同県の県庁所在地。

山陰地方最大の都市であり、山陰唯一の特例市。鳥取都市圏を形成する。

江戸時代は池田氏の治める鳥取藩32万5千石の城下町として栄えた。 その後鳥取大震災、鳥取大火等の困難を乗り越え現在に至る。

本市は世界最大級の液晶工場を擁するなど、山陰随一・中国地方有数の工業都市でもある一方で、鳥取砂丘や白兎海岸などの豊かな自然に恵まれた都市である。

鳥取砂丘

鳥取砂丘(とっとりさきゅう)は鳥取県鳥取市の日本海海岸に広がる広大な砂礫地で、代表的な海岸砂丘。日本三大砂丘のひとつである。山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定されている南北2.4km、東西16kmに広がる、日本最大の砂丘である(内陸にある砂丘を含めると猿ヶ森砂丘が最大になる)。

1955年に国の天然記念物に指定された。2007年には日本の地質百選に選定された。

白兎海岸

鳥取空港

鳥取空港(とっとりくうこう Tottori Airport)は、鳥取県鳥取市にある第三種空港である。日本海、千代川、湖山池にかこまれた砂丘地帯にある。

風力発電

鳥取県では、いたるところに風力発電機が設置されている。

境港市(鳥取県)

境港市(さかいみなとし)は、中国地方の北部、鳥取県西部の市。

山陰地方は元より、日本海側では最大の水産都市である。

白砂青松の続く弓ヶ浜半島は東南にそびえる大山を背景に風光明媚な景観を呈しており、「日本の白砂青松100選」や「日本の渚100選」に選ばれている。

日本の著名な漫画家・水木しげるの出身地であり、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場するキャラクターの銅像がならぶ水木しげるロード、市が発行する住民票の写しの透かしにゲゲゲの鬼太郎に登場するキャラクターが使われていること、米子駅と境港駅を結ぶ境線に「鬼太郎列車」が運転されていることでも有名である。

一心寺(大阪府)

ホームペ-ジ

一心寺(いっしんじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。

正式名称:坂松山高岳院一心寺
宗派:浄土宗
開基:文治元年(1185年)法然上人/法然上人二十五霊場第七番札所
住所:〒543-0062 大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69

入口付近 仁王像 
入口付近 仁王像 
本堂

寿々乃井(すずのい)酒造店

 その昔、会津の殿様が参勤交代で通ったという由緒正しき道に蔵が建ち、脇には赤松、黒松の大木が構える。夏には水芭蕉が咲き誇り、大木にはムササビが住んでいるという、恵まれた自然環境の中、代々伝わる酒道具を使用し、丹念に心を込めて、手作りで酒が作られています。

 創業は文化年間。酒は端麗なやや甘口タイプが主流、素直できれいな酒質なので飲み飽きしません。杜氏の藤原氏は、在蔵役30年のベテラン。各種鑑評会でも毎年、優秀な成績をおさめています。

福島県岩瀬郡天栄村大字牧之内字谷中1
TEL:0248-82-2021
TEL:0120-82-2071

大井川沿線・寸又峡・長島ダム・井川ダム(静岡県)

大井川(静岡県)

南アルプス南部、静岡県・長野県・山梨県の県境付近にある間ノ岳に源を発し、赤石山脈・白根山脈の間を南下。静岡県志太郡大井川町と榛原郡吉田町の境界から駿河湾に注ぐ。
大井川に並行して、大井川鐵道の大井川本線・井川線が島田市金谷から静岡市葵区井川まで走っている。

寸又峡(静岡県)

寸又峡(すまたきょう)は静岡県中部、川根本町にある大井川支流、寸又川の峡谷。全長16kmで、比高は100mに達する。赤石山脈の隆起と寸又川の激しい下刻作用によって、複雑に入り組んだ流れが特色。穿入蛇行、貫流丘陵などは独特の地形。今でも浸食が激しく、寸又峡温泉のある大間集落付近には、元々河床があったと見られる跡がある。上流地域は手付かずの自然が多く残り、原生自然林保存地域にも指定されている。また、以前から林業が盛んであったため、その名残として飛龍橋や散策路が残っており、観光遊歩道として再生。
新緑や紅葉の季節は格別に美しく、また夏場の観光客も多い。また大間ダムに架かっている夢の吊り橋は有名な観光名所で、夢に出そうな幻想的な橋という意味の他に、渡るのが怖くて夢に見そうな橋という意味合いもある。

寸又峡・夢の吊り橋 (2008/05)
寸又峡・大間ダム (2008/05)

長島ダム(静岡県)

長島ダム(ながしまダム)は静岡県榛原郡川根本町(旧・本川根町)、一級水系・大井川本川上流部に建設されたダムである。
長島ダムは型式が重力式コンクリートダムで、堤高は当初112.0mを計画していたが後に修正されて109.0mとなった。特定多目的ダム法に基づき国土交通大臣が直轄管理を行う特定多目的ダムであり、大井川水系唯一の多目的ダムである。目的は洪水調節、不特定利水、灌漑、上水道供給であり、水力発電目的は有しない。水力発電を行わないダムとしても大井川本川では唯一となる。計画から29年後の2001年(平成13年)に完成しており、日本の長期化ダム事業の一つでもある。

井川ダム(静岡県)

井川ダム(いかわ-)は、静岡県静岡市葵区井川(ダム竣工当時は井川村)地先、一級水系 大井川本川上流部に建設されたダムである。
ダム建設に伴って、井川村の主要集落が水没する事となった。当時井川村は550戸の戸数があったが、ダム建設によってその3分の1以上に及ぶ193 戸の住居が水没する事となった。主要集落が水没する事は井川村の死活問題であり、住民は事業者の中部電力や河川管理者である静岡県に対し、以下の「補償三原則」に基づく補償の履行を迫った。
1)長年に亘って交通の障壁となっている大日道路を、ダム完成までに隧道(トンネル)化して交通の簡便性を図ること。
2)村づくりを良くし、文化水準を高めること。
3)納得の行く個人補償を完遂し、現在を上回る民生の安定を図ること。
この井川村住民の要請は、金銭補償ではなくて代替地造成による新しい井川村の創造という補償を求めたものであるが、この要望は当時の静岡県知事・斎藤寿夫によって受け入れられ、静岡県を通して中部電力に受諾された。これ以降新しい井川村の村づくりの為の諸事業が行われた。
インフラ整備としては大井川鐵道井川線の旅客利用や井川大橋の建設、町内の道路整備に加え、住民の悲願であった幹線道路整備として大日道路の代わりに井川林道の整備が行われた。富士見峠を越える新しい道路整備を行った事により、静岡市内までの所要時間が2時間以内に大幅に改善された。現在は静岡県道60号南アルプス公園線として国道362号と接続しており、静岡市内と井川・畑薙・南アルプスを結ぶメインルートとなっている。この他宅地造成に加え、公共施設としては井川小学校・中学校の移転新築とプールの新設や駐在所の新設、簡易水道整備、祭祀関連では神社の合祀移転や火葬場・共同墓地の新設、そして農地の造成を行った。農地造成により、以前は不毛の地であったこの地域でも稲作が行われるようになった。
こうした井川ダムの補償は、後のダム建設に伴う補償事業のモデルとなり、1973年(昭和48年)に成立したダムによる水没補償対策の基本法・水源地域対策特別措置法の源流ともなっている。

井川ダム (2008/05)

大井川鐵道 井川線(静岡県)

井川線(いかわせん)は、静岡県榛原郡川根本町の千頭駅と静岡県静岡市葵区の井川駅とを結ぶ大井川鐵道の鉄道路線である。南アルプスあぷとラインの愛称がつけられている。
大井川の流れに沿って山間を縫うようにゆっくりと走る。全線の1/3がトンネルと橋梁で占められており、また非常にカーブが多く走行中は車輪が軋む音が絶えない。そのため井川線の機関車および制御客車は水撒き装置を備えている。
鉄道資産は中部電力が保有している。ただし第三種事業者ではない。同線の赤字額は中部電力が負担している。

大井川鐵道井川線沿線・DD20 5「AKAISHI」 赤石 (2008/05)